料理、をする男。
ごはん、をつくる女。
前者は、例えばマラケッシュのフナ広場や、スークの屋台で客のために。
後者は家で家族のために。
家庭でごはんを作る女たちは働き者だ。
もちろん「飯」をこしらえることは、働くということでもある。
市場で食料を買う(これ重労働)、買ってきた野菜を洗う、切る、調理する…etc
ドキュメンタリー映画 « La cusine en hertage 料理という遺産 » の中では、
今は失われつつある、Dadaというモロッコの家庭に一人はいたお手伝いさんが話す
場面があり、
「タジンを作るに潰した鶏の、睾丸が付いた手で料理したものは必ずおいしい!」
と言い切ってしまう部分に、したたかに生きる姿、
そしてうまいごはんを作る姿と愛嬌がみえる。
また、マグレブで美味しいごはんを食べたいならば、
家庭に呼ばれることだ、と断言している。
となると人と人とのやりとりが必須になる。
だれも見知らぬ人を家に招いたりはしない。
エッサウィラのベルベル人でルバーブ奏者のアブダラに、
砂漠近くにある小屋と呼べそうな家に呼ばれた際、
家の女たちはまずオリーブや木の実、そしてタジンをごちそうしてくれた。
腹も一杯になったところで演奏か、と思いきや、
「デザートはクスクスだよ」と冗談。
いや、冗談でなく本当にクスクスがでてきたのには心底驚いた。
裏の台所(といっても木を差し入れる釜があるだけだが)に行き、
豪勢なごはんを作ってくれた奥さん娘さんに会いに行くと、そこは女だけの場所。
はにかみながら、残ったクスクスを食べている姿。
彼女達はベルベル語しか話さないので、手振り身振りでお礼を伝えたものの、
誰かのためにごはんを作ることを、毎日の営みとしている姿が胸を打つ。
メディナで仲良くなったおやじさんやおばさんに
「明日の昼、家に来ませんか?」
と誘われれば人として認められた、というか、
存在を分かち合う関係ができたと云っていい。
人間の存在とは、ごはんを食べることなしには成り立たないから。
そして、ごはんを作る女たちは、ちゃんと人をみているから。
イスラムのおでんに集う家族かな

女たちの居場所、である台所

中庭でクスクスをつくるおかあさん

家族で仲良く食べましょうね

アルガンを潰す女たち。固い殻を砕くは小さい頃から得た技。
これが美容商品としてのアルガンオイルとして売られる。

そして今、次世代に伝えられる、クスクスの作り方。