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28 avril, 2015 @ 13:11
· Classé dans あーと art, 俳句 haiku
佐保川を越えて右に平城京跡、秋篠川を越えて左に薬師寺。
奈良駅前で見つけた自転車置き場にてレンタルサイクルを借り、
土地勘よき自分と高を括っていざ西ノ京へ向かうも、
唐招提寺からの坂道回り道ですったもんだ。
交番に寄ってようやく辿り着いた小高い丘の上に立つ「たんぽぽの家」には、
以前岡本太郎美術館での開催「岡本太郎とアール・ブリュット展」で観た時と
同じイマキュレな空間と、ここで活動=仕事をするダウン症の人々の
作品に包まれた場。
アール・イマキュレの名は、アウトサイダーアートやアートブリュットとは
一線を画しており、その差異とは、
後者を、主体在りとし社会あるいは対称という構造から生まれるアートか、
前者を、主体なき無垢という衝動による始源たるアートであるか。
奈良のこの地に彼らが働く(=というのも彼らのアートを自立性をもったものとして
ファブリック製品、あるいはテキスタイルの商品にする実質的場所。)ということの
土地の意味を、自転車で来たことによってわかった気がする。
この地自体が immaculate イマキュレと感じる故。
帰り、秋篠寺の伎芸天を想いながら、秋篠川を右手に山に向かって自転車を漕ぎ、
太古の昔、山には春を司る神霊=佐保姫がいたという思いを馳せながら、
佐保川を渡る。
川両側の桜並木の蕾が春を待っていた。
この地のどの山も、地球の上で繋がり連なっていると信じたい。
佐保姫や救ひ給ふネパールの民

たんぽぽの家アートセンターのアトリエ内で

薬の殻を集めて何万個!
摩訶不思議かっこいい作品に仕上がります。

実際に靴下の柄となった作品。伊勢丹でも販売しているそうです。

秋篠や 外山の里や 時雨らむ 生駒の岳に 雲のかかれる(西行)
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20 avril, 2015 @ 11:48
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オブニー784号の特集で取材した南仏の日本庭園「Jardin Zen」は、
自然を見立てることを日本庭園の基本におきながらも、
ひたすらに「観る」ことにより、ものの本質から観る者の観念を取る
この修行のような行為を経て、彼の庭は「禅の庭」と名付けられた。
77年の京都の数十カ所におよぶ日本庭園訪問依頼、
元々造形作家であるがゆえに、彼にとっての作庭は芸術表現になる。
ひたすら謙虚に、プリンシパルのある、アーティスト。
そして真の食いしん坊は、御歳74歳にして毎日うまいごはんを自分で作っている。
アルジェリアで生まれ帰仏した彼はまた、真のピエノワールでもあり、
青春時代に得た、お母さんたちのそばで覚えた料理の数々。
アルジェリアのユダヤ人達のお祝い料理の面白さは、また格別の話だった。
7月5日には、この3ヘクタールある「禅の庭」にてKyのコンサートが開催されます。
自然の音と、楽器の音が庭の中にどのように漂うのか、
そして聴衆のみなさんと庭を共に歩きながら奏でる音はどこに飛んで行くのか。
心がどきどきします。
さて、彼のレシピからひとつ拝借。「真鱈のサルティン・ボッカ風」
-鱈を人数分に切り、塩胡椒、小麦粉をまぶしてオリーズオイルで焼き色を付け、
白ワインで軽くフランベ。
-グラタン皿に鱈を並べてサフランを振りかける。
-生ハムを鱈の上にのせ、オーブンで15分。
フランス料理では海のものと肉を一つの料理の中に入れることは
あまりしないけれど、真鱈の淡白な味と、まぶした小麦粉に生ハムの旨味が
染みいる、うまさ。
ovniの記事はこちらから→www.ovninavi.com/784sp
禅庭や小さな宇宙春の匂

枯山水にインスピレーションを受けて作った庭に佇むエリックさん。

南仏の陽光が入る台所は気持ちのよいものだ。

サフランが鱈の白身に栄える。

アシスタントの家族、皆で囲む食卓というしあわせ。
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2 avril, 2015 @ 10:42
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今やどこでにいても、少しの電気と、少しの機材があれば、
録音はいとも簡単に、できる。
少しの耳の技術と、そしてなにより良い音があれば。
4月8日に発売される「今、日本のフリージャズを聴く」と題された、
70年代に録音された作品の再リリースを迎えるにあたり、
「高木元輝・加古隆/パリ日本館コンサート」のライナーノートを書いた。
スタッフが運んだであろう、マイクや録音機。その当時の音から、
匂い立つ機材の香りを嗅ぐことができる。
加古さんと高木さん、そしてロン・ピットナーとケント・カータの音を支える、
彼ら演奏者の前に陣取る録音技師の想いが、伝わってくる作品、だと思う。
もちろん当人の演奏があってのコンサートという出来事である。
インドはベンガル地方に残る女の仕事、「カンタ」。
魅惑の刺繍の愛らしさといったら。
こういう人間の成す営みを、柳宗悦的にいうならば「民藝」と呼ぶのだろう。
しかしもっと根源的な愛情を感じることができる。
こういう人間の成す営みに小さなスポットを当てる、
無印良品「MUJI」というコンセプト。
購買意欲をそそる商品がずらっと並ぶその奥に、「Atelier MUJI」という
小さなスペースに、このベンガルから来た刺繍布カンタが佇んでいる。
やさしい空気が、そこにあります。
いずれも、手仕事として何かを残す、という作業に、
なぜもこんなにわたしたちは魅かれるのだろう。
一日の仕事を終えて春の暮
「ベンガルのたなごころ、彼女たちの針仕事」と題した展示は4月22日まで有楽町のATELIER MUJIにて。
http://www.muji.net/lab/ateliermuji/exhibition/150306.html
「今、日本のフリージャズを聴く」のシリーズは→http://www.universal-music.co.jp/japan-free-jazz/product/pocs-9347/


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21 février, 2015 @ 20:18
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離婚した妻との家族、その前妻の母親、そして今ある家族。
88歳から0歳1ヶ月までの人間3世帯が一緒に住む、
という今や貴重な共同生活は、パリであれば尚更。
脚本家のローランは、この共同体をつなぐ55歳にして
4人目の子どもは0歳の乳飲み、の親父さん。
そして年長の、彼にとっての義母はジル・ドゥルーズの奥さんである。
「まるでアフリカの村にいるみたいですね。」と私が言えば、
「その通り、パリのアフリカなの!」と。
離婚後、週に数回父親に会うために子ども達がパリを横断する労力を、
共同生活をすることにより取っ払ってしまうという合理的な生活に、
彼らは舵を漕ぎ出した。
そして老媼となった前出ドゥルーズの奥さんを見守る若い世代。
新しい奥さんとの間の4歳になるデルフィーヌは、
中庭を横切って血のつながっていないおばあちゃんの所へ遊びに行く。
あるいは異母兄弟と一緒に夕飯を食べる。
「子どもは社会に在りて」の実践。
第三者からは見えぬ当事者の、各人の日常を保つ共同への配慮。
ガラス張りの窓に囲まれた中庭を共通項に生活をする人々を、
もしここにドゥルーズ老爺が居れば、どんな眼差しで見ただろう?
そしてこの共同体に彼がおられるならば、
その暮らしの結果からどんな著書が生まれてくるのだろう?
と密かに想像してみる。
彼の著書の半分も読んでいないので、
深淵なるその考察から何かを得たとはいえぬ自分、
これを機にその世界に潜り込んでみたいものだ。
中庭を眺めながら頭をよぎるイメージとフレーズ、それは、
「アフリカは始源から続く人類の完成形」。
こちら相当長い説明必要故、いつか文章あるいは体現という形で試みたい。
「すべてが絶えることのない相互作用の中で共存するのだ。」
»千のプラトー » から ジル・ドゥルーズ・フェリックス・ガタリ

蕾が開きだした冬桜の枝は、庭にあるものだろうか


空間を仕切る、本。というアイデア

アフリカの布はどんな空間にも、馴染む。
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27 janvier, 2015 @ 10:27
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Jean-Jaques Lequeuのデッサン。
こんな乳首の表現、個々の深層に隠れたエロティシズムが
刺激されてしまうではないか。
時勢に臆することなく言おう、これも宗教に対する冒涜か。
こちら昨日終了したサド没後200年記念、オルセー美術館での展覧会。
終始ドキドキして、サドの描いた物語りの世界が具現化される世界を垣間みた、
という印象。
サド研究の凄腕女史アニー・ルブロンAnnie Le Brunの審美眼に
かなった強者作品ばかり。
めったに観られぬオーストリアのクービン. Alfred Kubinや
ハンス・ベルメールの登場。展覧会終盤にかけて心臓の高鳴りをTWという方法で
中継したいも当方TWはやっておらず、ほぼ最終日に行ったが故、
興味を持ちそうな友人たちにこの展覧会の情報を拡散できぬ、無念。
サドの言葉が木片に削られ各所に配置。その中にある一節。
「L’idee de Dieu est, Je l’avoue, le seul tort que je ne puisse pardonner a l’homme.
神という着想を抱くこと、それはわたくし曰く、人間の赦しがたい唯一の過ちだ」
このフレーズをキュレーターA.Le Brun女史が数あるサドの文章から選択し、
言葉を言葉以外の作品と共に配置することにより見えて来る意味。
それは、「現在」という名のもとで我々が生きる世の中への疑問、
秩序という名の倫理あるいはコード、理性的世界を易々と裏切る、
人間の本質的エロティシズムに目を向けるが故に浮かび上がる、言葉。
人によってエロティズムその焦点は当然異なるけれど…
何か予言的に、もしくは長い時の流れの中で、
だれしもが抱いていた疑問を、A.Le Brun女史がサドに代弁させているようにも
捉えることができる。
意味じくも会期中にあの事件は起こってしまったわけだが…
しかし同時に忘れてはいけない、サドの作品は永らく発禁物であり、
諸々彼自身も監獄生活続きであった、ということ。
それは、
自由という名のもと表現の自由に甘んずることなき、リスクを負っての、表現
である。
ではアリストパネスにみられる諷刺は一神教誕生以前、
だれの恨みを買っただろうか。
大革命以降社会の隘路となるライシテ、
あるいは紀元前アテナイ(一神教の誕生以前)の時代からある
「諷刺」というの手法、両者時空を埋められぬが故の問題を浮かび上がらせるに、
今回の展覧会はサドという表象を逃さなかった。
今一度、サドというある一人の人間が追求した、人間の真相を読み解くべく
思想、あるいは物語、を知る喜び、そしてその歴史的背景を知る喜びとしよう。
2週間に渡る特別号charlie hebdo「Tout est pardonne」
での編集部からのメッセージの中で注目すべき文章とは、
「追悼のためのパリノートルダムの鐘楼を鳴らす者は、
フェメン FEMEN、 Фемен の彼女たちであるべきだ。」
と、〆ている。
さて誰の気分を害すというのだろうか。
(物理的に今や鐘は機械によって作動=鐘をつくのは人間では、ない。
という自己諧謔性。
あるいはフェメンを赦し難い対象としてしている者たちへの….)

Jean-Jaques Lequeu -そう、私たちも母ですから-

大好きなゴヤの版画「気まぐれ」シリーズ、は象徴的揶揄にあふれている。

目眩がするほど魅力的なビアズリーの
「女の平和 Lysistrata」シリーズは、19世紀が誇る風刺では。
ただし、そこには宗教的象徴は描かれて、いない…
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3 janvier, 2015 @ 21:04
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60年に独立後すぐ、家族でコートジボワールに移住したという、
今は小学校の教師マリリエスの家の壁一面には、その当時現地の友人から
贈られたという、セヌフォ族による泥染コロゴ布のタペストリーが飾られている。
彼女の父上は61年からECOSOCの一環としてアフリカ経済開発のための
調査・援助の仕事に従事し、「イボワールの奇跡」に貢献したという。
父上の家にはその当時の資料(もちろん紙)が山の様にあるそうだ。
いつか目にしてみたいものだ。
しかしながら、ウフェ=ボワニ大統領の死後の内戦、クーデターの時代を
フランスに戻った彼はどのような想いで観ていただろうか…
この布の柄が、見ての通り非常に胸を衝くからにして、写真として拝借。
私も彼女のように毎日眺めてみよう、と思う次第。
年明けて何を望もふ明日の日に

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20 décembre, 2014 @ 2:41
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ある依頼が、あるイベントの1週間前にあり、こういう間際の依頼は仕事がら
よくあるのですが、ある難関を越えられれば引き受けることができる、と思い、
師走の賑々しさと忙しさに押されて、ある挑戦を。
それは、韓国人アーティストMunGi YANG氏の「DE LUXURY STONE」という、
石にブランドロゴを刻んだ作品を持ってフランス国立近代美術館、
通称ポンピドゥー・センターの広場をファッションショー会場に見立て、
野外で演奏するというもの。
ブランドロゴマークが刻まれた石の鞄を持って歩くモデルさんも大変だけれど、
極寒パリ野外で一人で吹くという、これが »ある »挑戦としてあるわけで。
指はかじかむ、歩きながら吹く、金属でできたサックスは寒さで音程が
おかしくなる。とまあ挑戦に見合う条件そして状況。
しかしながらパフォーマンスを見入る人、行き交う人からの反応、
なによりパリ大学で学ぶ韓国の学生やミュージシャンと知りあいになれたことの
喜びは大きなもの。
特に韓国の伝統楽器、大笒テグム奏者 InBo LEEとの出会いを、
大切にしたいものだ。

ポンピドゥー・センター広場での演奏を終え、ストラヴィンスキー広場に移る

ルイ・ヴィトン、モノグラム・ヴェルニのパロディ!!
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17 décembre, 2014 @ 14:43
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance, 音楽 musique
今秋ツアーを応援いただきありがとうございました。
既に数週間経ってしまった今頃になってのお礼だなんて、師走も迫るというのに…。
今回も各地の頼もしいほどの生きる力に感激。
上越は100年を迎える世界館を守り、盛り上げる、力。
秋田の学生さんたちが持っている好奇心の眼差し、
おずおずと、しかし個と個になると発揮する、力。
福島は飯野町に覚悟を決め、先祖を守り抜く、力。
北海道の山との共生、海との交わる、力。
静岡の山寺承元寺住職の、鈴木大拙の英語講義を日本語訳にする、力。
名古屋のアートと生きる過程を同次元で展開する、力。
富士山周辺はやはりそのエネルギー自体との共存を日々のこととする、力。
まだまだまだありますが….
真の交流とは、人が動いてなんぼのもん。
ともあれこれら土地と人々が生む力、との出会いでした。
土地行けば寒ゆるみたるおふるまひ

会津を抜けて霧の中の、これが磐梯山じゃ!

秋田公立美術大学の学生たちに質問攻め、の演奏者

「てさぐり」展覧会の会場を案内してくれる人は、視覚障害者の方々!
だから、鑑賞者も「てさぐり」なんだ!決して革新的ではない、これぞ必然的展覧会。

井上信太(美術作家)・前田真二郎(映像作家)による未年計画 名古屋ひつじ物語
開催するヤマザキマザック美術館へ多いに一票!

駿河に安国寺、今は承元寺、重松ご住職の英語での会話のひと時。

女の細腕で樹を切り倒し植林する姿。ホタテ貝を大地に敷き詰め、向こうに見えるは洞爺湖。

小さな窓から、世界を観る。
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11 novembre, 2014 @ 2:33
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance
池袋のぺーぱーむーんにて疲れを癒し、バスにて早朝に名古屋へ着く。
かれこれ2日間はもう布団で寝ていやしない。
朝6時前ではカフェだって営業していないし、
駅をぶらつくも疲れきっており、そこで機転をフル回転。
「そうだ、太郎さんに会いに行こう!」
ということで、名古屋生まれなのに実はいった事のない、北区へ。
志賀本通り駅を下車。感を頼りに、あっという間に「久国寺」へ到着。
岡本太郎が創った「梵鐘」に会いに。
青山の記念館庭では他入場者を気にせず叩くことができたのですが、
かえって一人ぽっちのこの境内では、鳴らすどころか、
その存在を前に立ち尽くしてしまった。
故障したアンプ修理を取りに、帰りは名鉄瀬戸線に乗るわけなのですが。
なんと辿り着いた場所は、そう、学生時代に使った、「尼ケ坂」駅。
こんな偶然のいたずらも、岡本太郎の成せる技だろうか…。
久国寺住職の依頼による、岡本太郎作「歓喜の鐘」

尼ケ坂。江戸時代には辻切りが多かった坂だそうだ。

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18 octobre, 2014 @ 12:43
· Classé dans あーと art, モロッコ スーフィー教団ハマッチャ Hamadcha ou Hamdcha, 音楽 musique
15/8 拍子のリズムがタリージャ、ヘレーズによって刻まれる瞬間、
拍子の頭を探し、メロディーの頭を探し、という感覚はなくなるようです。
ただただリズムに心身共委ねて、感覚の中に何かが目覚めたとき、
自然と舞台前方で叩くリズム隊と目が合い、何百年続く »治癒の音楽”と
呼ばれる神秘主義スーフィー教団Hamdchaに伝わるそのメロディーが自然と楽器を
通してでてくるのでした。そして歌い手サラの声が、メロディーに、重なる。
とまあやはりその音を聴かねば伝わらぬこと多々ですが…
またもや舞台の上では、やはり音の神さんが降りる瞬間多々で、
なんど涙が頬をつつったことか。お恥ずかしい。
例えば、 »Bibi Louya »という曲はリーダーであるYoramによるアレジン。
モロッコ組は激しさを抑えたリズムを淡々と叩く。
この曲が始まった瞬間、突然涙が目に溢れた。
本番である今日の今日までYoramはこの曲の由来を楽士達には話さず、
しかし、この曲はユダヤに伝わるメロディーなのだという。
観客に向けこの曲のことを説明した後、私は彼の心の奥にあるユダヤ人である
という »何か »神聖たる想いを見た気がする。
そう、彼はモロッコ人でありユダヤ人であり、イタリア人であり、そして今、
フランス人なのだ。だからこそ »ルーツ »を求める彼の想いは
音楽に投影されているのだ。
信心深いモロッコ人スーフィー教団の楽士を目の前にし、
また彼らと共に限りなくイスラムに基づく伝統的な音楽、
そして実験的な音楽を追求している彼の、この時自身の出自を音楽に託す彼の姿勢が
一気に理解できた。
今日はいよいよアラブ世界研究所での演奏、ヤンラ!!

演奏前の楽士(Hamdchaの衣装ではなく、みな各々の伝統的モロッコの服で)

Herrezヘレーズの皮は山羊、
太陽がでていないため人工光で皮を乾かし張りのある音に
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16 octobre, 2014 @ 10:59
· Classé dans あーと art, 料理 cuisine, 時勢 circonstance, 音楽 musique
どういうことだろうね。
生きるということは。
ひとりでは、できないこと、だろうね。

Ky2014年のツアー、11月から始まります。
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2 octobre, 2014 @ 3:28
· Classé dans あーと art, 俳句 haiku, 時勢 circonstance
日本に滞在する度に、できるだけ寄る所があるのです。
それは川崎にある、岡本太郎美術館。
「母の塔」の下で、何度と音の精をみたことでしょうか。
なんていうと、ちょっと妙な発言かな。
セコイア杉の間を抜けて、ひとり頭上を仰げば、
この地が枡形山であったと気づき、この地多摩丘陵、の上で
太古の昔から人々が息づいていたのだなあ、とひとりつぶやく次第。
企画展である、「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」
で得た感覚は、純粋性そのものに触れたような、
肯定的なまあるいボールを抱きかかえる様な、気分になったわけで。
おもわず館内カフェで、メロンソーダを飲み、覚えたての感覚を反復し味わう。
そして、1999年に刊行された岡本太郎による「美しく怒れ」の、
ユーモアにして痛快な、ワクワクするような文章に、
少し力をもらっている今日この頃、です。

10月5日までだそうです。

こんにちは

行く夏の木立に径を見つけをり
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29 août, 2014 @ 13:06
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance, 音楽 musique
シャガールが磔刑になるのではなく、
またバタイユがランス市長になるわけでもなく…
チュニジア人女性とフランス人男性による結婚式の演奏、
という仕事で訪れたここはパリから1時間半、
シャンパーニュ地方ランス。
花嫁方の女性達のユーユー(ファルセットと舌を駆使した女性の歓喜の表現方法)
が式を盛り上げ、太鼓類に合わせて踊る、晴、祝いの日。
両方家族の宗教を越えた、人と人の繋がりを感じる次第。
この街へ来たからには、ランス大聖堂に行かないわけにはいかない。
という事で演奏を終えた翌日、私が出会ったのは、シャガールと、バタイユ。
1914年にドイツ軍の占領下に、街も大聖堂もことごとく破壊され、
負傷者をベットがないゆえに、屋根のない大聖堂で藁を敷いて看護したという。
この街がドイツ軍に占領され、壊廃した、そのなげき、あるいは若い同胞、同志達
へ宛てた信仰を表する随筆、ジョルジュ・バタイユによる「ランスの大聖堂」。
実際の場所に来ると、書物の言葉ひとつひとつが手に取るようにわかる。
13世紀以前、大聖堂が大聖堂になる前から、同じ場所にはチャペル、教会、
という段階を追って建物が建てられていたという。今でも地下にその跡形が残って
いるそうだ。
であるからには、この場所が選ばれた地である聖性はどこからくるのだろう?
いずれにしても、戦争という破壊によって1974年に生み出された、
シャガールによる教会の新たなる光は、会堂奥で誰それを待ち、
62年に亡くなったバタイユは、いつかその光にやはり脱自としての
恍惚をみいだしただろうか。

花嫁方のチュニジア人女性たち

シャガールによるステンドグラス
得意とする象徴的な青の中に磔刑のキリストの姿

ちくま学芸文庫に使われた、破壊されたランス大聖堂の写真
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11 avril, 2014 @ 12:46
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長谷川祐子パリ講演会
「パフォーマンス性、空洞化する身体、日本の現代アートの予兆性」
Présages de l’art contemporain japonais
今回も間際の情報入手にて、拝聴。
文化庁からの任務であり、海外派遣型「文化交流使」の一環とのこと。
個人的には「アール・イマキュレ 希望の原理」の展覧会での彼女のお仕事が気になっていたり。
(アール・ブリュットとは一線を画する)
戦後敗戦の日本社会における父性喪失は、
その後の日本を代表する幼冲的な表現へと繋がる。
具体、実験工房、もの派、またFluxusから奈良美智における、
つねに海外との距離感、という軸をおきながら、しかし日本人のものの見方
を、聴講者であるフランス人に丁寧に説明していた姿が印象的だ。
日本の価値基準が往々に、海外での成功後の逆輸入という手法によって
形成されていることへの視点だったり。
日本の国の中に居る場合、個人的感覚への尊重、
または他者の »社会との関係性 »を表現する行為に対する興味の欠如、だったり。


白髪一雄の三番叟(さんばそう)の作品画像
長谷川女史の今回の講演で、私にとっての白眉はこのフレーズ。
「欧米の文脈から日本のこの文脈がよみとりにくいのは、
自己と他者の明確な分離と一つの体系を中心にして文脈が形成されている構造ゆえである。
そしてもっとも重要な異なる点は主題、中心となるテーマ(主体)の欠落である。」
また、ドウルーズ・ガタリの「ミルプラトー」で示されたリゾームを例に
(特にフランスでの講演であるが故かな?)だした展開には唸った。
« 無数の主体 »という、現代をあらわす関係性と、Artを照らし合わす、
そいうった相対的な美術の捉え方ができると確信。
ひらめきを照らすセーヌ河春灯
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16 janvier, 2014 @ 2:41
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フランスの博物館、美術館では、毎回毎回刺激的発見があるのですが、
展示の内容、というよりそれ自体の存在への発見、
の方が割を占めています。
というのは、「この分野を博物館にする!」という驚き。
例えばアルフォード獣医学校内のフラゴナール博物館や、トロワの道具博物館。
これが何ともアートになっているから面白い。
(日本は目黒の寄生虫博物館も負けてはいないが…アートかな?)
FBの功名か、様々な情報を随時キャッチできる、ただ今2000年代。
尊敬するサックス奏者、Jean-Charle Richard氏の
ソロコンサートの開催を間際に知り、向かった会場は、狩猟博物博物館。
ジビエGibier(狩猟鳥獣)を食す文化は、その過程をも文化にする、
ということ。そして文化の連鎖は音楽という文化に辿り着く。
この博物館の詳細は、http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/mont-back/0802/montalembert.html
に載っていますが、今回は特別展ということで、「猪の間」からはじまる、
コンテンポラリーアートと、狩猟(本物の剥製)の摩訶不思議な世界は、
Marion Laval-Jeantet et Benoît Manginのユニット
Art orienté objetからなるもの。
彼らArt orienté objetの、人類と動物、そして自然を介しての芸術的テーマは、
わたしたちが実存する条件を科学からの問いかけに対し、
それは生態学、という応えでアートを成立させている。
このコンセプト、そして展示を観ながら思い浮かんだのは、
我らが日本人、 »三木成夫 » !! の書籍による作品。
「胎児の世界」は、世界のバイブルに。
「内臓とこころ」は、世界の精神安定剤に。


入り口にでは、Lee Ufan 李 禹煥が迎えてくれる。

山に鳴る今年も猟期に入りけり
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18 août, 2013 @ 2:42
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メトロを筆頭に、街に貼られる映画のポスターには
嫌気が差すくらい、兵器を手に、未来を襲う »悪者 »退治をする定番アメリカ映画、
そしてアニメーションにしてもロボットは銃をもち、
ハリウッド女優さえバズーカ砲を背中に抱えているものばかり。
こういう、兵器を日常にあるものとしてのプロパガンダはもうこりごりだ!
cité de la musique を最終日に駆け込んだ展覧会は、
「Musique&Cinéma -le mariage du siècle?-
音楽があっての »第三の男 »、 »ファンタジア »のラフ画。
チャップリンがハンガリー舞曲とシンクロする場面。
« ティファニーで朝食を »オープニングのムーンリバーが流れれば
会場から溜め息が、ヘップバーンを眺める顔は皆美しい。
音響的編集効果がすばらしいゴダールの »Pierrot le fou »。
Michel LegrandとJacques Demyの手にかかればフランス映画の真髄を味わえる。
映画が完成するにあたって編集という仮定の疑似体験。
« 乱 »では武満徹の音に引き込まれ…
フランスでの企画展なので、万人の知るところとなる映画をメインに。
知っている映画音楽が会場で流れれば鼻歌をうたう人も、微笑ましい。
しかし、フランスだからこそ、アラブ語圏の映画もピックアップしていただきたいものだ。
せめてエジプトのウム・クルスームは…
そんなリクエストはちょっと欲張りすぎるだろうか。
映画を文化として受け入れ、想像が作り出す世界に魅入られた人々が味わう
至福の時間は、上映時間を終えた後も、どこかでその音楽を耳にする度に
蘇るその時映画を観た人生を、思い出す。


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13 mars, 2013 @ 20:52
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高校を ‘どろっぷあうと’、自分の人生を静かに見つめる10代の子達と一緒に演った
大岡淳さんによる、劇詩 « 帝国”。
劇中使った斎藤鉄平さんが造る、’波紋音-ハモン-’は、静かな劇詩の音となる。
こういったパフォーマンスを演じさせてくれる、そして講師に渡辺京二氏を呼ぶ、
この、学校ではない教育機関の在り方に刺激されたつい先日。
奈良から上京されたブブ・ドゥ・ラ・マドレーヌさんと、
くる23日に控えた江戸糸あやつり人形による「マダム・エドワルダ」
http://www.acephale.jp/news/news.html の終演後のエロス論トークのための顔合わせ。
演出家の要望に耳貸さぬ女子二人は、それはもうエロス論で杯は進み、
消費の対象として踊らされるヘテロ性経済やら、
いわゆる仏文系バタイユのそれにどのくらい近づいていいのやら、などなど。
ただ、時空はとても面白く、その後品川から深夜バスで西に移動し着いた所は、
バタイユの友人である方が創造した、空へ突き刺す’太陽の塔’の前。
そこから10分ほど歩けば、静かな知性を織り紡いだ梅棹忠夫氏の造った民博へ。
種は、土の中でいつか芽吹きの時をもつ、と信じて…
まだまだ行きまっせー、’そりちゅーど’な移動と日々のタネマキ。
ふたとせを すぎてみちのく 涅槃西風
海の聲 土の聲にも 春の聲


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18 décembre, 2012 @ 3:40
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance
12月16日。
日本の選挙開票がはじまる時間、
パリではフランス内閣法案、「同性結婚法案」同性結婚の認可に
反対する人々に抵抗する法案賛成デモ。
一ヶ月の前のles inrockuptibleには先頭を切る彼女、
ウクライナ人 Inna Shevchenko率いるfemenn の写真が。

カトリック教会や保守系勢力は、
親族の構造や、近親間の…云々やらが問いただされる、というけれど、
この理性中心主義へ抵抗すべき、抗う人々がいる。
それは、「人権」への真っ当な姿勢。
すでに先達から学ぶべき概念、構造主義をもとに、
この問題をより見つめてみようと思う。
現在2012年、ある宗教のもつ「権威」への ? マークが、
地球上でいよいよ増幅している、と感じる。
「宗教」、という言葉を使うと、それを論ずるに見合う私の知識は
皆無に等しいので、改めて勉強しなければならないけれど…
Femmen
彼女たちの行なう抵抗運動を、第12回世界報道写真展でのパンフレットから以下抜粋
Inna Shevchenko is a leader of Femen, a Ukrainian pretest group composing almost exclusively yon womwn, which organizes topless demonstrations against such issues as sex tourism, the sex industry and internet marriage brokering.They counter accusations that their provokeative methods undermine their own movement’s values with the claim that if they staged simple protests with banners, their voice would not be heard.
ウクライナの抵抗運動グループ「Femenn」のリーダーを務める彼女。
ほぼ若い女性だけで構成されるこのグループは、セックス観光、性風俗産業、オンライン結婚斡旋業などに対して、トップレス姿でのデモ行動を組織している。
こうした挑発的な手段が運動の価値を損なっているという批判に対して、
横断幕を掲げる普通のデモでは、自分たちの声が届かないと反論している。

2012年世界報道写真に選出されたこの写真を撮った人物は、
実は隣に住んでいる、Guillaume Herbaut氏であると、
つい最近知った。
身近なところに「行動する力」がある、ということに
嬉しくなってしまう。
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1 décembre, 2012 @ 6:00
· Classé dans あーと art
名古屋はart feel zeroにて会期中、十一紙 。
宮下香代さんの作品を購入する機会に恵まれ、
ギャラリーでの佇まいと、自分の空間での佇まいは、こんなにも、違うのかな。

feel art zeroにて 家に着くやいなや…

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12 octobre, 2012 @ 1:42
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance, 音楽 musique
ちょっとへそ曲がり、というか、普段コンサートを聴くための場所、
というより、色々な空間で音が鳴るシチュエーションを
想像して、ある時はお寺で、ある時は本屋さんで、など演奏をしてきましたが、
お花屋さんでの演奏も、以前からある想像の欠片です。
なかなか興味深い書籍も出版されている「草冠 kusakanmuri」、
というお花屋さんで演奏を行ないます。
白と緑のみのお花屋さん、というのもへそ曲がりの自分には
刺激されるものがあります。
10月13日(土)16時30 open / 17時start
2625円・予約 Tel : 03-6415-4193
kusakanmuri gathering 10/13(土)「フランスの生活に在る、世界の音空間」
kusakanmuri – 恵比寿にオープン 新しいスタイルのフラワーショップ

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10 juin, 2012 @ 10:40
· Classé dans あーと art, 時勢 circonstance
IMA(アラブ世界研究所)開催された »Le corps decouvert »-身体の発見-は、
アラブ世界自体が、そしてその要素となり頭角をあらわすであろう »現代 »アートの、
序曲のような展覧会、でありワクワクする作品たちに出会える観る側の喜びと同時に、
アラブ世界においての本来覆うべき »身体 »— »裸体 »という、 « 西洋的表現 »を、
宗教が国の大きな役割となっているアラブ諸国が一丸となって、
先進国のアートシーンに挑んでいる姿が、伺える。
この序曲の裏には、アブダビにルーブル美術館別館を設立するにあたって、
西洋美術の基に位置する »裸体 »とどのように対応するか、
そんな危惧に対する一つの解決方法、ともみれる。
といってしまうのは、あまのじゃくかしら。
20世紀初頭にみられる裸婦の習作から展示会は始まり、
« 現代 »アートで幕を閉じる構成は、実に充実していて、
”アラブ »と”裸身体 »のコントラストが、
とても象徴的かつ観る者の好奇心と、
それこそ観るものがアラブの »身体 »を発見する、
という応答が待ち構えているかの如く。
現在となっては象徴へのパロディ、そうさせてしまう美術における紀元前からの裸体は、
アラブ諸国によるその追従の先にある新風となり、世界を楽しませてくれると確信。


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12 mai, 2012 @ 9:50
· Classé dans あーと art, 料理 cuisine
今年1月、バーゼルで開催された倉重光則氏の個展オープニングでの演奏の際、
幸いにして偶然に、Josef Albers ヨゼフ・アルバースの回顧展に行く機会に恵まれました。
そして…嬉しい事にパリでも。
同じ内容、とは思うのですが、バーゼルのそれとは光が、ちがう。
などなどまた別の日に考察するとして、今は菜の花真っ盛り。
延々と続くそれこその菜の花畑はおそらくフランスだけではないと思う。
ところで、自家製マヨネーズを作る時、色々試した結果、コルザ (菜種)で作るのが
適した味になる、と最近分かった次第。
そこにすこーしオリーブ油を垂らせば、なんとなく南仏っぽくなり、
ニンニクなど入れた日にはアイオリになり、
しかしニュートラルな味で langoustine(手長蝦)を
食するならばColzaの黄色、で決まり。

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