秩父・武甲山と藤原岳ー紀州の果て熊野に至る
あまりにも遠い遠い地である秩父になぜ親近感をもつかというと、それは父が学生時代によく秩父の山々に登っていたことに由来する。
あの時代だから、国鉄熊谷経由で何時間もかけて秩父谷にたどり着いたことだろう。
今は彼にとって過去の人となったわたしの母は、わたしがネパールのポカラの山々を歩き、ヒマラヤを眺めていた時、彼女は雲取岳を登っていた。
まったく違う場所でしかし山の高さの次元は同じだったかもしれない彼女との、携帯電話という文明の利器によって会話をした、ヒマラヤ山脈あの景色をはっきりと覚えている。距離の、幻覚的感覚を覚えている。
さて、二度の離婚、死別を経て今父は四日市に住んでいる。
鈴鹿山脈北の極には藤原岳がある。
規模は違えど武甲山と同じくピラミッド型に切削された無残な山の姿。
当時は小野田セメント、現在は太平洋セメントという会社名。
三岐鉄道(三重+岐阜のハイブリッド的ネーム)自体は人間のためではなく、セメントを運ぶためにひかれた鉄道なのだ。
父の家に行くたびに使う駅舎に、真っ黒のコンテナが堂々と居座るそれを見るたびに暗い気持ちになる。
切符は未だに厚紙でパッチンと駅員が打ってくれます。
地域はセメント産業の恩恵を受けているのだろうか?
秩父同様山景を売りにしたカントリーサイドの豊かな暮らしを売りにしている”いなべ(員弁)市 »のIターンキャンペーンに抜け目がない。
それでも、あの鈴鹿山脈西方の地が生きる術としての行政の意思とそこで生きる人々のことを思うと、批判的な言葉はこれっぽっちも生まれない。
さて、国鉄に乗りそのまま南下すると、伊勢中川、尾鷲、熊野灘を左に新宮、そして熊野にたどり着く。
紀伊半島となるあの雰囲気が、伊勢志摩の山と海を出自にもつわたくし自身にとって、やはり特別な地であることは否めません。
規模はちがうけれど、切削された藤原岳の姿が日常になってしまうという現実
同一性土地春迎へ春捨てる
Laisser un commentaire
Vous devez être connecté pour rédiger un commentaire.