サド公爵、諷刺ってなんですか?
Jean-Jaques Lequeuのデッサン。
こんな乳首の表現、個々の深層に隠れたエロティシズムが
刺激されてしまうではないか。
時勢に臆することなく言おう、これも宗教に対する冒涜か。
こちら昨日終了したサド没後200年記念、オルセー美術館での展覧会。
終始ドキドキして、サドの描いた物語りの世界が具現化される世界を垣間みた、
という印象。
サド研究の凄腕女史アニー・ルブロンAnnie Le Brunの審美眼に
かなった強者作品ばかり。
めったに観られぬオーストリアのクービン. Alfred Kubinや
ハンス・ベルメールの登場。展覧会終盤にかけて心臓の高鳴りをTWという方法で
中継したいも当方TWはやっておらず、ほぼ最終日に行ったが故、
興味を持ちそうな友人たちにこの展覧会の情報を拡散できぬ、無念。
サドの言葉が木片に削られ各所に配置。その中にある一節。
「L’idee de Dieu est, Je l’avoue, le seul tort que je ne puisse pardonner a l’homme.
神という着想を抱くこと、それはわたくし曰く、人間の赦しがたい唯一の過ちだ」
このフレーズをキュレーターA.Le Brun女史が数あるサドの文章から選択し、
言葉を言葉以外の作品と共に配置することにより見えて来る意味。
それは、「現在」という名のもとで我々が生きる世の中への疑問、
秩序という名の倫理あるいはコード、理性的世界を易々と裏切る、
人間の本質的エロティシズムに目を向けるが故に浮かび上がる、言葉。
人によってエロティズムその焦点は当然異なるけれど…
何か予言的に、もしくは長い時の流れの中で、
だれしもが抱いていた疑問を、A.Le Brun女史がサドに代弁させているようにも
捉えることができる。
意味じくも会期中にあの事件は起こってしまったわけだが…
しかし同時に忘れてはいけない、サドの作品は永らく発禁物であり、
諸々彼自身も監獄生活続きであった、ということ。
それは、
自由という名のもと表現の自由に甘んずることなき、リスクを負っての、表現
である。
ではアリストパネスにみられる諷刺は一神教誕生以前、
だれの恨みを買っただろうか。
大革命以降社会の隘路となるライシテ、
あるいは紀元前アテナイ(一神教の誕生以前)の時代からある
「諷刺」というの手法、両者時空を埋められぬが故の問題を浮かび上がらせるに、
今回の展覧会はサドという表象を逃さなかった。
今一度、サドというある一人の人間が追求した、人間の真相を読み解くべく
思想、あるいは物語、を知る喜び、そしてその歴史的背景を知る喜びとしよう。
2週間に渡る特別号charlie hebdo「Tout est pardonne」
での編集部からのメッセージの中で注目すべき文章とは、
「追悼のためのパリノートルダムの鐘楼を鳴らす者は、
フェメン FEMEN、 Фемен の彼女たちであるべきだ。」
と、〆ている。
さて誰の気分を害すというのだろうか。
(物理的に今や鐘は機械によって作動=鐘をつくのは人間では、ない。
という自己諧謔性。
あるいはフェメンを赦し難い対象としてしている者たちへの….)
Jean-Jaques Lequeu -そう、私たちも母ですから-
大好きなゴヤの版画「気まぐれ」シリーズ、は象徴的揶揄にあふれている。
目眩がするほど魅力的なビアズリーの
「女の平和 Lysistrata」シリーズは、19世紀が誇る風刺では。
ただし、そこには宗教的象徴は描かれて、いない…
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