無数の主体 innombrables sujets
長谷川祐子パリ講演会
「パフォーマンス性、空洞化する身体、日本の現代アートの予兆性」
Présages de l’art contemporain japonais
今回も間際の情報入手にて、拝聴。
文化庁からの任務であり、海外派遣型「文化交流使」の一環とのこと。
個人的には「アール・イマキュレ 希望の原理」の展覧会での彼女のお仕事が気になっていたり。
(アール・ブリュットとは一線を画する)
戦後敗戦の日本社会における父性喪失は、
その後の日本を代表する幼冲的な表現へと繋がる。
具体、実験工房、もの派、またFluxusから奈良美智における、
つねに海外との距離感、という軸をおきながら、しかし日本人のものの見方
を、聴講者であるフランス人に丁寧に説明していた姿が印象的だ。
日本の価値基準が往々に、海外での成功後の逆輸入という手法によって
形成されていることへの視点だったり。
日本の国の中に居る場合、個人的感覚への尊重、
または他者の »社会との関係性 »を表現する行為に対する興味の欠如、だったり。
長谷川女史の今回の講演で、私にとっての白眉はこのフレーズ。
「欧米の文脈から日本のこの文脈がよみとりにくいのは、
自己と他者の明確な分離と一つの体系を中心にして文脈が形成されている構造ゆえである。
そしてもっとも重要な異なる点は主題、中心となるテーマ(主体)の欠落である。」
また、ドウルーズ・ガタリの「ミルプラトー」で示されたリゾームを例に
(特にフランスでの講演であるが故かな?)だした展開には唸った。
« 無数の主体 »という、現代をあらわす関係性と、Artを照らし合わす、
そいうった相対的な美術の捉え方ができると確信。
ひらめきを照らすセーヌ河春灯
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